昭和48年8月15日  前夜祭における御理解
秋田健一郎


 野口さんの告別式に引き続いてで御座いましたから、ま、お疲れのことじゃったと思います。
 教祖様が真とか、真の信心ということを、沢山の言葉を使って表現しておられます。
 「『真の信心』と言うことは、えー、真のことが分かる信心ということだ」と、私は思うんですけれども。真のことが分かるということが、人間の幸福であります。
真が分かるということが、まあー、物に恵まれ、えー、一切に恵まれるということにも関わり合いがあるのですけれども、本当のことが分かるということは、生身を持っておりますから、やはり叩かれれば痛いし、難儀ないろんな問題が起きて参りますれば、それがやっぱり悩みになりましたり、悲しみになったりするわけですけれども、本当なことが分かるということによって、「悲しいけれども有り難い。苦しいけれども勿体ない」というようなおかげを頂くんですから、有り難い。
ですから、それが分かって、あー、それが分からないということは本当のことが分かっていないということになるのです。
今度の野口さんとこの告別式を、今日つきあわせて貰うてから、そのことを特に感じさせて頂いたんですけれども。
本当に信心が、本当に分かっておるという子供達程、何と言うんですか、ね、取り乱さないと言うか、悲しまないと言うんですか。ね。悲しいと、親を亡くすんですから、けれども、それと平行してですね、本当に有り難い。神様の働きの間違い無さというものを実感しておるから、あー、もう本当に勿体ない、有り難いということになって来るわけです。    
ですからね、私どもがどこまでも信心は「真の信心」を目指し、「真の信心」を頂かなければいけない。ね。
それには、一つ、その「真」がどういうようなことかということを、真実分からして頂いて、おかげをこうむらなければならんということになります。
今日、ま、お祭りを奉仕させて頂いて、えー、座っておる時に頂きますことは、この「与える」という字を崩して頂く。略して。
それは、数字の「5」という字を書いて、「-(引く)」という字が書いてある。これが「与える」という字である。ね。
数字の「5」という字を書いて、ここんところに「-(引く)」をひいたら、それは「与」という字の略字なんです。ね、ですから、「5引く」ということは、「めぐりのお取り払いを頂く」ということなんです。「ごう(業)」ということは、仏教的な言葉でありまして、いわゆる「難儀の基」と言われております。
人間は業を持っておる。その「業」が難儀をかもす、か、難儀をつくるというわけです。
ですから、信心は、そのお互いが頂いておる、その「業」というものを引いていくということが信心だと言うこと。だから、「業を引かれる」ということは、「めぐりの取り払いを頂くということは、そこに、何がなしかの、いうなら犠牲というか、ね、支払いをしていかないかん。借金を持っておるから、それを払うていくという意味なのですか。ね。
ですから、「業」ということは、その「業」を引く(-)ということは、やはり難儀。けれども、その難儀な思いをいたしますけれども、そのことが有り難いというのはです、それは、もう「与えられる」に繋がるのだということです。だから、どうしても私どもがね、本当の信心が分からんと、それが分からん。
「『やれ、痛や、今、みがけを』という心になれよ」と。
「やれ、痛や。」と言う心、今、みがけを、今、みがけを頂いておるんだ。みがけを頂く受け物が出来ておるんだと分からして頂くというのですから、そのことが苦しいことであれば、苦しいことである程、それが悲しいことであれば悲しいことである程、そうなのです。ね。
だから、真のことが分かるということはです、「業」を引かれる。それはおかげを頂くということに繋がるんだと実感させて貰う。分からして貰う。そこに与えられるおかげというのがある。それが、真の信心だという風に分からなければいけません。
昨日、今日のご準備、炊き物なんかをいたしますのに、障子を閉めてやってますから、誰々がやってたか分かりませんけれども、矢代(?)さんが、その中心でおかげを頂いた。それで、上野先生がその助手をして、おかげを頂いた。それで、その助手をさして頂きながら、終始、矢代(?)さんのお話を頂いたと。先日から、自分自身が死ぬか生きるかというところを通らして頂いてのおかげ話を上野先生にしたそうです。
「もう自分としても、もう気が遠くなって『ああー、これでもう、いよいよ一貫の終わりか』と、思う程しであるのですから、周囲で見守っておる者も、それを、やはり感ずる。
もう、いけない。もう、家内が耳元で『お父ちゃん、お父ちゃん』と言うて、そのう、泣きながら、お父ちゃんを揺り動かしておる時にはね、もう、それは、もう大変な重みを、重いものを持っておる様な感じだった。他は何にもないけれども、そんな感じだった。
そして、『もう、いよいよ、これは難しかばい。』ということになった時にです。言うなら、家内がもう、そのことはもう置いて。ね。その苦しいことやら悲しいことは、もう「ままよ」という心になってと言いましょうか。ご神前に向かわれて一心に御祈念を始めたら、その百斤も持っておった様なものが、半分以下に減った様な思いがした」と。
ま、私しゃ、それを聞かして貰うて、「それが本当だろう。」と、思います。
お互いが日々、不平を思い不足を言う。腹を立てる。悲しむ。そういう様なことはです、如何にそのー、おかげというものが頂けないかということが分かりますね。
ただ、我情だけで「お父ちゃん、お父ちゃん」と言うて、揺り動かしておる間は苦しい。けれども、もう「ままよ」という心で、神様一心におすがりをしてくれておるという様なものが、こう、夢の様におぼろげに感じると、もう何かスーッと、今まで重かったものが、軽うなる様な思いがしたということを、私は、これは本当に、もう、おかげというものは、そんなもんだと思うです。ね。
例えば、今日、野口さんとこを例にとりますと、ほんなら、信心の無い子供達はもう、それこそ、余りにも突発的なことであったから、それは当たり前のようですけれども、ただ悲しいことばっかり。もう、他の兄弟達だっても同じことなんです。
けれどもです、ね、けれども、その、悲しいだけではなくて、有り難いというものも伴のうておる。神様の一分一厘間違いの無い働きというものも感じておる。
ですから、いうなら、遺体の前に、そのー、縋って、泣き叫、泣き狂うておるというようなことは、如何に御霊に重みを感じさせることか。いうなら、行くところにやらん。言うならば、手にぶら下がらし、足にぶら下がっておるようなことになるという様な分かりますですね。
ですから、そういう時に、悲しいということは同じことです。例えば、同じ子供ですから、親を亡くす。例えば、難儀なら難儀ということ。けれども、その反対にです、悲しいけれども有り難いという信心を頂いておくということは、真のことが分かっておらなければ、真の信心を目指しておらなければ、それが分からないということ。
人間の幸福というのは、だから、真の信心を身に着けておくということ。そのことに精進をさせて頂くということ。
降るも、言うなら照るもあるけれども、その降る時も、照る時も、それは、信心の無い者も同じことだけど、信心という、例えば、傘を持つからおかげで濡れんで済むという程しのおかげを受けるということが、真の信心を頂いた人達の姿であるという風に、私は思います。
ですから、どうしても真の信心を頂かして貰う。ね。真にならして貰う。そこんところを究めて行くということが信心。ね。
それにはです、例えば、私どもが、ね、いわゆる「与える」という時。「業を引く」という時。私どもから「業」を引いて、引かれる時には、もうそれこそ、大変な苦しいことを感ずることもある。悲しい思いをすることもある。「業」を引かれておる時には、ね。
けれども、それは、もう「与える」、「与えられる」ということに繋がっておるという信心が分かる時にです。痛い、けれども、「やれ、痛や。今、みかげを」と言うて、合掌してお礼を申し上げれる心。悲しい涙ではない喜びの涙。
先ほど、式が終わってから、あのー、客殿で着替えておりましたら、お父さん、それから、長男、富永先生夫妻でお礼に出て参りましてから、「もう、私は、涙を流させて頂いても、伯母たちや親戚の者が『悲しい涙じゃろ。まあだ、今はこんくれいばってん、先の方は、まあーだ、悲しゅうなるばい』ち、伯母達が申しますけども。もう、本当言うたっちゃ分からんですけれども、実は今、私が流しよっとは、もう本当に勿体ない。そのー、例えば、今日の告別式を頂いて、もう有り難い勿体ない。とにかく、有り難いから涙を流しよっとですけれども、伯母達は、そう申します。」と、こう言う。信心の無い者に分かるはずがない。
「とても、とても『段々、先になると寂しゅうなるばい』。先々、有り難うなることだけは、私は自信を持っておるけれども、寂しゅうなるといった様なことは思われません。」と言うて、富永さん言っておられました。
それが本当のはずです。ね。それが本当の信心を目指しておる者、頂いておる者は、そうあることが本当なのです。
だから、真の信心をさして頂くと幸せだということになるのです。ね。
だから、めぐりの取り払いを頂くということは、「与えられる」ということに繋がることですから、与えられなければなりません。その都度、都度に、私は、おかげの世界が広がって行くというおかげを頂かなければならない。
私は、うーん、今日の、えー、なるほど、それはもう、テンヤワンヤの中ではありますけれども、別に、こう、重なり合うということも無しに、スムーズにです、昨日から今日、そして明日にかけて、また、おかげを受けていくことでございましょうけれどもです、その神様の一分一厘の間違いの無い働きの中にある一つのリズムに乗って行くのですから、有り難いのです。
今晩の前夜祭を仕えさせて頂いてもです、今日の昼のことを、お礼を申させて頂いておりましたらですね、例え、それが告別式であってもですね、あの様な、例えば告別式は「合楽の御ひれい」だという意味のことを頂きます。ね。
もう、ここで、言うならば、どういうようなことであっても、テンヤワンヤしておるということは、これは「合楽の勢い」だということなんです。ね。もう、ただ、ただ、お礼を申し上げるほかには無いと思わして頂きました。
いよいよ、明日にひかえました御大祭を、えー、まー、合楽の方達が、言うならば、日頃願っておるところの「五つの願い」が、いよいよ成就して参りますことの祈願にほかなりません。
しかも、それは、どういう迫力、どういう熱を持っておすがりする、お願いさせて頂いても、それは神様も同じ思いで願ってござる。または、すがってござることなのです。
「五つの願い」というのは、そのように大変なこと。私どもの願いであると同時に、神様の、また、願いでもあるのですから。ね。
いよいよ、この願いが成就することのための、私は、おかげにならなければならんと思います。
      どうぞ